ツバメの読書ブログ

読書記録や旅行記を中心に。

ショコラの見た世界 / 映画

高校生頃にたまたま出会った映画。
映像も美しく、ストーリーも素晴らしくて、何度見てもラストで泣いてしまう。



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不都合な硝子屋(作者:ボードレール)

「純粋に内省的な性質で、全く行動に適しない人物がいるものだ。
ところがくだんの人物が、時として、一種の神秘不可思議な衝動に駆られて、平素は思いも及ばなかった脱兎のごとき迅速さで、行動に移ることがある」


主人公は上記の様な通常は静かな性質の人間で、臆病な程である。
私自身内省的な方だから、「ああ、分かる!周りにも居る!」と思えるような人物だ。

だが、この静かで内気な主人公が、ある朝、窓の外を通る硝子屋を見たことをきっかけに、彼の中で何かがクラック(壊れ)した。というよりスイッチが入った。
ボードレールは、
「不安の裡に快楽を見出すためであり、また、何の目的もなく、ただ気紛れに、暇潰しに、それをするのである」
それは「火薬樽の側で、葉巻に火をつける」行動に似ていると言っている。
つまり、アウトプットが苦手な人間ほどストレスが溜まり、突然突飛な行動を起こしやすい、ということではないだろうか。


本書では、硝子屋には何の落ち度もないのだが、『おい、おい』と声を掛け、
パリの狭いアパルトメントの階段を主人公の自室がある七階まで登らせた挙句、
『欲しいものが何もない!』と言って追い返し、渋々帰る硝子屋がアパルトメントの入り口から出てきたところへ植木鉢を落とした。
当然真上からもろに植木鉢を喰らった硝子細工は...というとても悲惨なものになっている。


既に犯罪レベルであるが、この行為でたとえ罰をくらったとしても、
「一瞬の間に無限の快楽を味わい取った者にとって、永遠の罰など何であろう」
とボードレールは言い切っている。


私が一つだけ感想を持つとすれば、
ストレスを溜めないような、鬱憤のはけ口となり得るような趣味や息抜きを、是非持ちたいものだ、ということだろうか...

バビロンの架空庭園(作者:澁澤龍彦)

『ホルトゥス』Hortusは、ラテン語で「庭」という意味である。
この「庭」というものは、スコラ派哲学者がしばしば「鏡」Speculumを一個の宇宙として表現したのと同様に、やはり一個の世界を表すためにを用いられていたのではないか。
澁澤龍彦氏の見解から始まる「庭」を巡る随筆である。


「人間の歴史のなかで、庭という概念がいつの時代から、どの地方で形成されたものか、私にはこれを詳らかにするすべとてないが、すでに失われたエデンの楽園という観念そのもののうちに、ミクロコスモスへのノスタルジアが籠められていたはずなのであり、
回帰と救済への漠とした渇望も同時に籠められていたはずなのである。」


上記文章が澁澤氏がおそらく「庭」を随筆のテーマとすることを通して一番伝えたかった内容ではないだろうか。

🍀16世紀に描かれたバビロンの空中庭園


確かに庭いじりをする時、私たちはそこに自分なりの理想の楽園を製作する意味で夢中になる。
居心地の良い場所。
自分の心の一番落ち着く感情の在処とリンクする小宇宙を現実の世界に表現するのは、
実際の現実世界、しばしば親切とは言えないこの世界に、見える形で自分の中に存在する楽園をアウトプットすることであり、
世界に対して自分が影響を及ぼし得るという満足感を得る。
しかしながら、そこに表現された小さな「庭」という楽園は、あくまで現実世界と自己の中に存在する感情的事象の境目にある、
いわばクッション的世界である。そのため、自分の作り上げた「庭」という世界に籠るのは、外的な空間に接触するというよりも、むしろ個々の内相世界に近い側に引きこもる行為になるのである。


表題の「バビロンの架空庭園」については、一説ではアッシリア王国の美貌の女王セミラミスの造形した庭園であるとされている。
(セミラミス女王について、ギリシャ神話ではアシケロンの女神デルケトがシリアの若者と恋に落ちて生んだ娘という説もあり、
生後すぐに砂漠に捨てられて、鳩に育てられたという。彼女自ら軍の先頭に立ちシリアやインドまで遠征を試みた意味でジャンヌ・ダルクにも似ている)


その他説については本書を是非ご一読いただきたい。


何にしろ、バビロンの架空庭園は白蓮、ヘリオトロープ、立麝香草などの花々が色を競い、噎せるような香気が漂い、白孔雀、極楽鳥、ペリカン、紅鶴等の鳥類が遊ぶ、夏でも涼しいアーケードから眼下の市街を眺めることができるようなとても優雅な楽園だったといわれている。


そこまではいかないにしても、初夏の季節柄を活用してたまには庭に出て土いじりをしてみたい。そして自分なりのエデンの園を庭に出現させてみるのも面白いかもしれない。